江戸東京ものがたり・地誌篇(3)



江戸時代に作られた新種朝顔「団十郎」。柿色が歌舞伎役者・市川団十郎のトレードマークだったことから名付けられた。

その1――染井村

見立番付と園芸

文化文政のころ(1804〜30)江戸の町にちょっとしたブームをよんだものに、「見立番付」がある。
その名のとおり、さまざまなジャンルでの評判や順位を、相撲や芝居の番付の体裁にしたもので、地震・火事・水害などの災害から、神社・仏閣、評判娘・金持・医者、蒲焼屋まで、いろいろなものが板行されている。
その中でも意外な感じを受けるのは、名木・名花・盆栽・朝顔・菊など、園芸に関するものがかなり多く存在することである。というのも、「いき」「いなせ」などという言葉で知られる、外向的な江戸っ子の世界とは、いささか違った世界が、そこからかいま見えてくるからだろう。

上流階級の園芸趣味と植木師

江戸の園芸の最初の担い手は、大名や旗本、豪商といった、いわば上流階級であった。
江戸時代初めには、広大な武家屋敷が新たにつくられ、その多くは庭園をもっていた。そのため、植物を植えることが必要になり、植木師を入れて、庭園に植樹させたり、花壇をつくらせたりした。そのころ、さまざまな椿の珍種が求められ、安楽庵策伝は『百椿集』を書く。その後、延宝9年(1681)には、約 200種の植物を取り扱った日本最初の園芸書『花壇綱目』が刊行される。
元禄年間(1688〜1704)には、つつじ・さつきの類が大流行し、駒込村の枝郷、染井村に住む将軍家御用の植木師伊藤伊兵衛が、つつじの図解書『錦繍枕』、 331種のつつじ・さつき類を収めた園芸書『花壇地錦抄』を表し、技術の普及に努めた。

江戸市民の園芸ブーム

その後、このようなブームをよんだ植物には、菊・朝顔・桜草などがある。特に、菊・朝顔の栽培は、江戸後期の庶民に人気をよんで、陳列した植物を鑑賞したり(朝顔屋敷)、市も開かれたりするようになった――今日でも有名な入谷の朝顔市が開かれるようになったのは、天保年間(1830〜44)といわれる。また、同じころには、町中を売り歩く朝顔屋も登場、
「朝顔のしほれぬうちに売らばやと
 己が声を枯らしてぞ呼ぶ」
という光景も見られた。
このように、意外に江戸市民は園芸を好み、江戸後期には、今日でも下町の路地で見られるような、植物と親しむ生活を送るまでに普及していったのである。

染井の植木屋と四季の花暦

先ほど述べたように、植木屋は江戸時代の園芸の発展に大きな寄与を果たした。植木屋は、ある程度広い敷地を必要とすることから、江戸の郊外に集まり住み、花園を開いて公開していた。
このような植木屋の花園には、染井村のほかに、下谷池之端、落合などがある。
中でも染井村は、将軍家御用の植木師伊藤家を初めとした、多くの植木屋が集まり、江戸でも最大の園芸村として知られた。『楽しミ草紙』(嘉永4年(1851))第二冊によれば、染井村の花暦は、春はつゝじきりしま、夏は牡丹、秋は百種楓。四季折々の植物が、江戸市民の目を楽しませていた。

江戸のバイオテクノロジー

江戸時代の園芸はかなりレベルが高く、朝顔では文化の初めごろから、花や葉に対する改良技術が進み、変種や珍種がつくられるようになった。
それにつれて、鑑賞サイドも高度になり、寺社の境内や愛好家の座敷に珍しい花を陳列・鑑賞するという「花合せ会」が開かれるようになった。
嘉永期(1848〜54)には、より新奇な朝顔がつくられるようになり、今日でも有名な「団十郎」という、柿色大輪の朝顔が完成した。
また、幕末には、今日でも桜を代表する染井吉野が染井村でつくられた。
やがて、染井村は明治維新をむかえる。さしも栄えた園芸村も都市の拡大には勝てず、桜に村の名前を残して、新興の園芸村にその地位を譲っていったのである。




『江戸名所図会』に見られる飛鳥山の光景。

その2――飛鳥山

「飛鳥山勝景」の謎

『江戸名所花暦』には、上野東叡山をはじめとして、35か所の桜の名所が挙げられている。
その中でも、長谷川雪旦のイラスト入りのものは、上野東叡山・隅田川(2見開き)・飛鳥山・小金井橋の4か所だけで、これらの地は、いわば「江戸の花見処ベスト・フォー」ということができよう。
中でも飛鳥山のイラストには、「飛鳥山勝景」という歌が8首添えられ、近江八景にならって、8か所の見どころを示す親切さである。
  筑波茂陰
  王子深樹
  滝野河夕照
  鴻臺秋月
  染井夜雨
  西原晴嵐
  豊島河帰帆
  秩父遠影
が8首のタイトルで、高台である飛鳥山から見える風景をセレクトしている。王子・滝野河・染井・西原・豊島河(隅田川上流)は、今でも高い建物さえなければ見えるだろう。けれども、あとの3つの風景は、ちょっとした驚きであろう。もっとも、筑波や秩父の山並みは、広重や北斎の浮世絵でお馴染みではあるので、江戸市中から見えたんだなあ、江戸時代は空気が澄んでいたんだと、納得することもできる。けれども、鴻臺(千葉県市川市国府台)だ。山と違って、せいぜい20メートルくらいの台地だ。
試しに手元の地図で計ってみる。直線距離で14、5キロメートル。けっして、不可能な距離じゃない。ここでようやく納得することができた。

飛鳥山桜花由縁

元文2年(1737)徳川吉宗の命により、飛鳥山に桜が植えられた。
かつてこの地は、豊島区にその名を残す武士団の頭領、豊島氏の出城で、江戸時代初期には、旗本野間氏の所領であった。そこを、吉宗が幕府に返納させ、王子権現に寄進し、桜を植え、一般公開したのである――ちなみに、飛鳥山という名の由来は、豊島氏の一人左衛門なる人物が、熊野の飛鳥明神の祠を建てたことから。
「飛鳥山勝景」にあるように、高台であり近景から遠景までの眺望をほしいままにすることができるし、王子稲荷の参詣のルートにもあたっていたので、花見のころは大変な賑わいを見せた。また、上野が寺内であり羽目を外した花見はできない、かといって、隅田川の堤はやかましすぎる、小金井は遠すぎる、といったうるさ方には、もってこいの花見場所であったわけだ。

したがって、江戸市民にとっては親しい花見場所の一つ、落語の舞台になっても不思議はない。その一つ「長屋の花見」を、上野にする演者と、飛鳥山にする演者とがいるのは、どちらが江戸時代の実情に則しているか。先ほどの記述を参考に、お考えいただこう。




柴又帝釈天(経栄山題経寺)。

その3――柴又(1)

寅よりも申で知られた帝釈天

今日では「フーテンの寅さん」でよく知られる柴又の帝釈天(経栄山題経寺)が、江戸市中から多くの参詣者を集めるようになったのは、庚申信仰(庚申の夜、寝ると命が縮まるから、徹夜して身を慎み、災難を避けるという民間信仰)が元になっている。
もともと、江戸川右岸の土手を背にして、草庵があったといわれているが、今日のような日蓮宗の寺院になったのは、寛永6年(1629)のことで、下総中山法華経寺(千葉県市川市)の末寺としてであった。当時はまだ近在近郷からの参詣者があるだけの、ローカルな寺院であった。
安永8年(1779)の本堂改築のとき、梁の上から日蓮が自ら刻んだといわれる帝釈天の板木が発見された。その日が庚申(かのえさる)であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。このことと庚申信仰が結びついて、天明年間(1781〜89) に柴又帝釈天は一大ブームを迎えることになったのである。

帝釈天の参道あれこれ

当時、庚申の日には江戸市中からの多くの人が、暗い帝釈道を提灯を連ねて帝釈天に向かい、本堂や門前にあった料理屋で夜明かししてから、朝早く一番開帳を受け、御神水をいただいて帰路についたという。
帝釈天の周囲はほとんどが水田で、
 「案山子まで帝釈らしい葛西領」
という川柳があるほどだ。例外は門前で、家並みはまばらだが多少の店がある。
けれども、農家の副業なので、庚申の日にしか開店しない。名物は、手づくりの草だんごやオコト汁(里芋や人参、ごぼうなどの醤油汁)といった野趣あふれるもの。また、庚申の「申=猿」にちなんで、「不幸や災難を弾き去る」という「はじき猿」も名物玩具という。
このようなようすは、明治時代の中ばまで続く。




金町―柴又間を結んでいた人車鉄道。蒸気機関はあっても、小馬力のガソリン・エンジンが普及していない頃は、人力などに頼るしかなかった。

その4――柴又(2)

帝釈天参詣は人車鉄道で

明治33(1900)年5月、帝釈人車鉄道株式会社が設立された。柴又の人車鉄道は、6人乗りの車両を二人の車丁が押すもので、金町・柴又村間 1.4キロメートルを複線のレールで結んだ。
庚申の縁日には、1日1万人もの人を運び、現有車両だけでは運びきれないこともあったという。けれども、それ以外の日には1日 100人以下のこともあり、経営的には必ずしも上々とはいえず、大正元(1912)年会社は解散し、京成電気軌道に権利を譲渡。その後、人車の軌道跡を利用して、今日の京成柴又線が完成した。

文人も足を止めた川魚料理屋

明治の終わりから大正にかけて、交通が便利になったこともあり、庚申の日以外にも、行楽のために柴又を訪れる人が増え始める。それに伴って、帝釈天の参道は整備され、常設の店も多くなり、門前にも今日のような仲見世ができてくる。
このころ、漱石の『彼岸過迄』の主人公たちが柴又を訪れている。彼らは両国から汽車(現在のJR総武線)で市川まで行き、江戸川の土手を歩いてから対岸に渡り、帝釈天を参拝してから、川縁にある川魚料理屋で鰻の蒲焼を食べている。
同じ店で旧制一高生の主人公たちに蒲焼を食べさせているのが、谷崎潤一郎作『羹』である。彼らは、汽車で金町駅まで行き、その先は歩くというルートをたどっている。
この他、大町桂月『東京遊行記』、尾崎士郎『人生劇場』、安西篤子『女の東京地図』など、多くの文人が柴又を描いた随筆や小説、俳句、短歌などを残している。
寅さんを思い出すだけではなく、『彼岸過迄』にならって、江戸川の堤を散策し、矢切を舟で渡り、柴又で一休みするなど、明治を偲ぶ休日を過ごすのも、たまには悪くないのではないだろうか。




利根川水系の水運に活躍した《通運丸》。浅水面でも航行できる外輪の蒸気船だった。

その5――江 東

東方の水運のメインルート

行徳(千葉県市川市)は、江戸近郊の塩の主要な生産地であった。この塩を江戸に運ぶために、天正18(1590)年に開かれたのが、江東区の北寄りを新大橋通りとほぼ平行にはしっている水路、小名木川である。この水路は中川の先で新川に通じ、浦安(千葉県浦安市)あたりで江戸川に通じている。江戸川を約半里(2キロメートル)ほどさかのぼれば行徳である。
行徳行きの水運は、早くから整備されたこともあって、江戸時代には、成田参詣や鹿島・香取詣でなどの旅人にも利用されている。松尾芭蕉もその一人で、『鹿島紀行』に「門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。」と、この水運を利用したことを述べている。
明治になってからも新川は水運に利用され、明治4(1871)年には利根川丸会社が設立され、新川から江戸川を経て、関宿(千葉県関宿町)で利根川に入り栗橋(埼玉県栗橋町)に達する蒸気船利根川丸が就航。その後も、明治10(1877)年には内国通運の通運丸が就航し、銚子・佐原方面、古河・笹良橋方面、水海道方面、北浦・土浦方面などの定期貨客輸送を開始する。大正8(1919)年には通船が就航して、昭和19(1944)年まで、このルートでの水運が続けられたのである。

豊富な水を生かした金魚養殖

水運とともに、水を生かした産業である金魚の養殖が、今でも江戸川区で行われている。
江戸川区の金魚養殖は、明治30年代の江東地区の開発が引き金となった。
本所・深川・砂町・大島・亀戸など、今日の江東区・墨田区の業者が、まだ水郷地帯であったこの地に移転したのがはじまりという。明治44(1911)年の統計には、葛西・小松川・篠崎・小岩・平井などに、金魚養殖場の名が見られる。
大正12(1923)年の関東大震災後、金魚ブームが起こる。このブームによって、大規模な養殖業者はますます規模を拡大し、農家の兼業から専業となる、などの動きがあった。昭和10年代には、海外への輸出も始まるほどの成長をみせた。
戦争中、金魚養殖は一時中断。戦後の再開後も昭和22(1947)年のキャサリン台風、昭和24(1949)年のキティ台風で大きな被害を受けたが、輸出の再開などで次第に戦前の活況を取り戻していった。昭和44(1969)年に営団地下鉄東西線が開通し、周辺の開発が進み、地価も高騰するなかで、他県への移転や転廃業もみられたが、金魚養殖の伝統は今でも健在である。

荒川放水路の開発

水は、人間にとって不可欠なものであるが、ときには被害をもたらす存在でもある。
江戸の昔から、隅田川と江戸川に挟まれた江東デルタ地帯は、「水田勝の沃土なれば他の郡より富饒の地なり」(『新編武蔵風土記稿』)というように水田には向いてはいるものの、水害に悩まされる地域であった。
明治時代、東京の発展・拡大が進むとともに、今日の江東・墨田区一帯を工業地帯として開発することが急務となってきた。このような中を、明治43(1910)年8月、東京を大型台風による洪水が襲う。 隅田川が決壊し、本所・深川・浅草・下谷では、十数日間も水がひかず、市内の一部では1丈1尺(約 3.3m)の水深に達するところもあった。被害総額1億2千万円、首都圏の浸水区域は埼玉県・東京府低地部一帯で、23万町歩(2281平方キロメートル)と記録されている。
この水害が一つのきっかけとなり、東京を洪水から守るため、荒川放水路の建設が決定する。
東北本線の鉄橋部分を起点とし、砂町地先の中川河口で東京湾にそそぐ、総延長22キロメートル、中流部では水路の幅 109.2m、堤防最上部の幅 455mという大工事である。準備は大洪水の翌年から始められ、丸20年の歳月と3144万6千円の費用とを費やして、昭和5(1930)年に完成した。この完成によって、荒川水系の本流が隅田川から放水路に移り(そのため今日では、荒川放水路ではなく単に荒川と呼ぶ)、江東地区の本格的な工業地帯としての発展が進んだのである。


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