 ▲猿の伝説にちなみ、門前に猿の像がある松源寺。
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都内の将門伝説(13)
地名の民間語源説(folk etymology)から。
●板橋区小豆沢
平将門が東国を押領した時、その貢物の小豆を運んで来た舟がこの入江に沈んだので、小豆沢という名となったという。(村上春樹『平将門伝説』)
板橋区に残る伝承は、上板橋村の氷川神社など、将門側に立ったものが多い。都内北部地区は、将門の勢力圏であったのだろうか。
●新宿区「赤城」元町
平将門の首が飛んで来て、この社(赤城神社)の木の梢に落ち留まった。そこに、血がついたので、赤木の明神という。(同上)
次は、将門および討伐側関係の伝承。
●相馬家の墓(中野区上高田1丁目松源寺(新宿区神楽坂より明治39年に移転))
江戸時代、下総相馬家の嫡流は、徳川の旗本となり、その菩提寺がこの地(新宿区神楽坂)に存した松源寺であった。この相馬家は、平将門の直系を誇り、神田祭の際には、当主が威儀を正して参拝したという。(同上)
この寺は、別名「猿寺」ともいい、住職の災難を救った猿の伝説も残されている。
●東山稲荷神社(富士稲荷とも藤杜稲荷社とも。新宿区下落合2-10-5)
源経基がこの社の神託により、平将門の暴虐を朝廷に訴えた。これによって、官位を賜ることになったという。(同上)
境内に藤の大木があったことが社名の由来とか。空襲で社殿が焼失、昭和28年に坂下から現在地に移転。
●宝泉寺(新宿区西早稲田1-1-2)
前に触れた水稲荷の別当寺。
かつて、当寺の境内に、毘沙門堂があった。ここには、藤原秀郷が自ら作った毘沙門像があった。戦場において、秀郷が平将門討伐を一心に祈ると、その兜の上の空中に、毘沙門が現じた。その姿を思い起こして作ったという。(同上)
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 ▲江戸後期の国学者、平田篤胤。将門を崇敬し、将門の像を秘蔵していたといわれる。
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都内の将門伝説(14)
平田篤胤(1776 - 1843)という国学者がいる。
本居宣長の「没後門人」と称するが、宣長とはかなり違っている。
一般には、ウルトラ・ナショナリストの原型と思われ勝ちであるが、その思想の中に西欧文化まで飲み込むほどの「巨人」であった(キリスト教,天文学、ラテン語、オランダ語、などなど)。また、「超常現象」にも強い関心を抱き、ある意味で、日本民俗学にも大きな影響を与えている。
その篤胤は、将門を神のように崇敬し、将門像まで秘蔵していたという。
●平田神社(渋谷区代々木3-8-10)
その平田篤胤を祭神(神霊真柱平田篤胤大人命:かむたまのみはしらひらたあつたねうしのみこと)として祀っているのが、この神社である。
●円照寺(新宿区北新宿3-23-2)
前に取り上げた鎧神社の別当寺。
藤原秀郷が当寺の薬師如来に祈願して、肝の病が平癒したので、堂宇を建立したという。(村上春樹『平将門伝説』)
また、江戸時代初期には「江戸三名桜」の1つ「右衛門桜」が境内にあった。この桜にも藤原秀郷伝承があり、
平将門を討伐した時、この地の柏木右衛門督も共に凱旋し、戦死者の遺品を持ち帰り、埋葬して菩提を弔った。その塚の脇に、桜の木を植えたという。(同上)
●海禅寺(台東区松が谷3-3-3)
平将門が下総国相馬郡に創建した寺であるが、将門滅亡後、荒廃していたのをこの地に遷したという。(同上)
関東大震災で被害に遭う前には、写楽の墓があったと伝えられ、幕末期の儒学者で「安政の大獄」で獄死した梅田雲浜(1815 - 59)の墓がある。
寛永17(1640)年に、ほんの10日余り下総国葛飾郡関宿城主(現・千葉県野田市関宿)だった小笠原貞信の墓も、この寺にある。
また、中野はかつて原野であり、ここで将門勢と秀郷勢とが戦ったという伝承もある。
●城山公園(中野区中野1丁目)
平将門は、武蔵の中野の原に出陣し、戦いに敗れて下総に逃れた。この戦いで弟の将頼が藤原千晴(秀郷の子)と戦い討ち死にした。実は、この城山公園の辺りがその戦場という(同上)
また、一説には、「将頼は、川越に逃れ、その地で亡くなった」とも。
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 ▲下谷稲荷社。現在は、下谷神社と称されているが、本来は稲荷を祀った神社。
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都内の将門伝説(15)
本来、下総国葛飾郡の一部であった、江東地区(江東区、墨田区、江戸川区、葛飾区)にも将門討伐側の伝説が残っている(武蔵国江戸に編入されたのは、江戸時代になってから。下総国―武蔵国の国境であることから、「両国」の地名が生まれたことは有名)。
●霧島神社(江戸川区上篠崎1-22-31 浅間神社内)
天慶元年(九三八)、平貞盛が当社を創建して、平将門討伐を誓い、金幣・弓矢を奉納して坂東の平定を祈願したという。(村上春樹『平将門伝説』)
なお、浅間神社は元下篠崎村(上之庭・中之庭・下之庭・西之庭・本郷の5地区)の鎮守で、境内には富士塚が築かれた。元々5地区にあった各鎮守が合祀された神社で、その内、本郷の鎮守は「天王」(牛頭天王)であったと伝えられている。この「天王」、平将門を指す場合もあるので、そうだとすれば、この神社には敵味方双方に縁のある神が祀られていることなる。
●東葛西夕顔観音堂(葛飾区西水元1-28-19 安福寺内)
将門の叔父で、将門の養子になったとも伝えられている良文の、墳墓が元ここにあったといわれている。
夕顔観音には、以下の縁起がある。
寛文8年(1668)飯塚村の名主関口治左衛門は、自宅付近の老松の根元から霊夢により観世音菩薩像と仏具を掘りだし、お堂の中に「夕顔観音」と称して安置しました。 観音像は、直径16 cmの円形懸仏で鎌倉時代の作といわれています。 江戸中期の元禄年間(1688〜1703)には多くの人が参詣したといわれています。明治26年から安福寺に安置されるようになり、秘仏として12年ごとの午年4月に公開されています。(「葛飾区公式サイト」より)
●黒船三社稲荷社(台東区寿4丁目)
天慶三年(九四〇)五月平貞盛と藤原秀郷が東州平定の時に、この社を造営したという。(同上)
●下谷神社(台東区東上野3-29-8)
祭神は日本武尊ということになっているが、本来は「正一位下谷稲荷社」(現在は末社に追いやれている)。稲荷町の町名はこの社から。天平2年(730)上野忍
ヶ岡に創建されたと言われる。寛永4(1627)年寛永寺の造営のために上野山下へ、延宝8(1680)年にこの地に移転した。
天慶三年(九四〇)二月、藤原秀郷が相馬城へ発向の時、当社に参籠して、朝敵追討の祈願をしたという。(同上)
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 ▲守谷小学校の敷地の片隅にたつ「平将門城址」の石碑。
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将門の「王城伝説」
将門の王城は相馬郡(現在の茨城県守谷市)にあると長く信じられてきた。
村上春樹(小説家とはまったく別人)の『平将門伝説』によれば、まず『将門記』での「王城を下総国之亭南に建つべし」との記述が、軍記物語では「相馬郡に都する平親王将門」ということばで置き換えられるようなる、と指摘する。
以下、村上氏の記述をご紹介しよう。
延慶本『平家物語』(一般に流布するもののヴァリアント)には、
承平年中に平将門下総国相馬郡に住して八ケ国を押領し自ら平親王と称して都へ打上りけり
とあり、これも下総国相馬郡説。
常陸国筑波山麓にたつ小田城で書かれたという北畠親房の『神皇正統記』では、
下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、みづから平親王と称し、官爵をなしあたへけり
と書かれていて、中世でも下総国相馬郡説が流布されていたことが分る。
江戸時代には、将門伝説が歌舞伎に仕組まれたり、読本に登場したりして、「相馬御所」のタームが有名になり、前回述べたように好事家の中には、実地調査をする向きも出てくる。
ところが、彼らが将門の城跡(王城跡)としたものは、下総相馬氏の居城址であり、それ(戦国期)以前には遡れないようなのだが、明治時代までは、この説が最有力なものとして伝えれてきた(現在も、守谷小学校内に「平将門城址」の石碑が建っている)。
これ以外にも「王城伝説」のある場所は少なくなく、「石井の営所」があったとされる茨城県坂東市中根の島広山(しまひろやま)を挙るのが、『下総旧事考』の清宮秀堅。
石井営所と云は俗に東内裏と称する地なるべし。併て当時のさまを追想するに、まづ小屋掛けやうのことと思はるるなり
また、茨城県真壁郡大和村大国玉字三門(みかど)には、将門の墓と伝えられる石塔や、将門の妻を祀ったといわれる后(きさき)神社があるが、その近くの字中丸本には、王城があったと伝承されている。
その他、茨城県藤代町、千葉県佐倉市、市原市、市川市、東金市などは、将門の一族に関係のあった地であるためか、王城伝説が残されている。
「将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じた」(幸田露伴『平将門』)王城伝説があるのが、埼玉県児玉郡神泉村、寄居町の鉢形城、神奈川県秦野市などである(秦野市では、将門の弟将文が相模国司に任ぜられたことによる、としている由)。
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 ▲成田山新勝寺。将門の「調伏伝説」が残り、今でも将門信仰のある地域では、この寺に参詣しない人びともいる。
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将門の「調伏伝説」(1)
坂東の状況が、任地を逃げ去った国司などから伝えられ、京は大騒ぎとなった。
というのは、同じ頃に西海でも藤原純友の乱が起るなど、全国が不穏な状態にあったからだ。
けれども、朝廷は兵力を動員して坂東や西海に派遣するだけの準備がない。
とりあえずは、各社寺に乱平定の祈りを捧げるだけだった。
時に本当の天皇は、十日間の命の猶予を御仏に乞いもとめ、その間に名僧を七大寺より呼び迎え、捧げものを八大明神に捧げて祈りを込めた(『将門記』)
のである。
『本朝世紀』という書によれば、将門の反乱が公然化した天慶二年(九三九)の五月十五日に、東海・東山両道の名神に臨時の幣帛使を派遣し、十九日には、十五大寺において三カ日間仁王経の転読をおこなわしめており、ここに記されていることがかなり事実に近いものであることを推測させる
と『将門伝説』にあるように、平安時代らしく話はサイキック・ウォーズの様相を呈してくる。
このような調伏伝説(神仏の加護により将門が滅ぼされた、とする伝説)は、各地にあるが、これらは、
将門が敗れたので、国家側に協力したように史実を歪曲して文献が作られることもあり得るので、厳密な史料批判をしなければならない(鶴岡静夫『平安初期の政治支配と関東神社』)
と指摘されている。殊に関東各地の寺社の場合には、
群盗の発生した地域の諸社の神は、むしろ中央政府に反抗する地域の住民を擁護しようとした(鶴岡『同上』)
からである。
そのようなことを考慮に入れた上で、各地の「調伏伝説」を見てみよう。
伊勢神宮、宇佐八幡宮、東大寺、比叡山延暦寺などでは、
「不思議な現象が現れた時に、将門が滅亡したと伝え」
ている(詳細は後述)。
坂東の寺院では、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、栃木県足利市の鶏足寺が、その代表例であろう。
それに伴い、将門伝説を伝承している各地には、成田山へ参詣しないという「成田山参詣忌避」の伝承もあるのは面白い(神田明神の氏子を始めとして、茨城県坂東市、藤代町、千葉県市川市、埼玉県越生町、東京都日の出町、群馬県太田市など)。
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▲将門の「調伏伝説」が残る比叡山延暦寺。
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将門の「調伏伝説」(2)
将門は、闘いの最中に鏑矢に射られて戦死したと言われている。
その鏑矢、誰が射放ったものか定かではないことから、将門調伏を行なった寺社の本尊や祭神の力によるものだという説が唱えられる。
最も有名なものの一つは、比叡山延暦寺に残るもので、
天台座主・尊意が〈不動安鎮法〉を修していたところ、突然に灯明の炎の中に将門が現れ、居並ぶ人びとが見上げると、鏑矢の音が東方に飛んで行ったのを聞いた
とする。
その鏑矢が、将門に命中したというのだ。
このような〈調伏伝説〉は、将門の滅亡前後の早い時期から流布し始めた。
一方、現実の世界では……。
将門の兄弟、一味の追及が始まった。
というのは、朝廷から下った命には、手柄に応じて爵位や恩賞が与えられるとあったから。
将門の弟・将頼は、玄茂とともに相模国で殺害された、と『将門記』に記されている。しかし、伝承の世界では、
将門の弟御厨三郎平将頼は、武蔵国多摩郡中野の原に出張し、藤原秀郷の子千晴と戦ったが、将頼は不利になり天慶三年七月七日、同国川越で千晴のために戦死した(『江戸砂子』の大意)
となっている。
武蔵国で竹芝と紛争を起こし、その後将門の食客となっていた興世王は、
天慶三年三月十八日、武蔵権守興世王、ならびに隋兵三十余人、上総国において討ち殺さる。(『貞信公記抄』)
その他の兄弟たちも、将平は秩父で、将武は甲斐国で、それぞれ殺され、将為は奥州へ落ち延びた、と言われている。
ただし、将文だけは、伝説によると青梅に逃れ、その後も追及を振り切って奥多摩地方で生涯を全うした、と言う。
将門は死んだが、生前から発生し始めた伝説は生き残り、枝葉を増やし、徐々に拡大していく。それは内容だけではなく、伝承する地域の広がりも意味する。
そして、現在では東国のみならず、北は青森から南は熊本にまで及ぶ。
また、伝説は文芸に取り入れられ、近世に入ると、歌舞伎や読本の世界では〈将門もの〉とでもいうべきジャンルを確立している。
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▲古代ギリシアの黒絵式アンフォラ『将棋を指すアキレスとアイアイス』(部分。左がアキレス)。
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将門の「鉄身伝説」
伝説上の将門は、超人のように描かれ始める。
その最初の形は、ほぼ同時代に書かれたといわれる『将門記』に出てくる。
将門の最期を記した部分には、
独り蚩尤(しゆう)ノ地ニ滅ビヌ
とある。この蚩尤というのが中国古代の伝説的人物。銅の頭と鉄の額を持った巨人ということになっている。
そのような人物に喩えられたのであるから、「鉄身伝説」が発生しても不思議ではない。
事実、『総州相馬系図』や津久戸八幡の縁起には、将門の鉄身についての記述がある。
その有様殊に世の常ならず、身長(たけ)は七尺に余りて(=2メートル以上)、五体は悉く鉄(くろがね)なり。左の御眼(まなこ)に瞳二つあり
という記述が『俵藤太物語』にあるのは、既にでご紹介した。
ここで面白いのが、古代ギリシアのアキレスに関する伝説との類似である。
英雄アキレスは、赤ん坊の時に、母親によってスチュクス(Styx) という黄泉の国を取り巻く川の水に浸けられたため不死となった、という。しかし、足首を母親に握られていたため、かかとだけは不死の水の恩恵を受けることができなかった。 「アキレスのかかとAchilles's heel/アキレス腱 」(=弱点)というフレーズが生まれた由縁である(ヴァグナーの楽劇で有名な、ジークフリートの肩に関する話も、この伝説のヴァリエーションであろう)。
一方、本朝の将門は、こめかみに弱点があったという説話もあるが、その由来についての話を欠いている。それを持っているのが、下総国相馬郡の説話で、
将門の母は大蛇で、彼を不死にするために前身を舐め回したが、脳天だけは舐めるのを忘れたため、弱点が残った
と説明する。
この鉄身の弱点と7人の影武者とは、将門の秘密として、1つの話にまとめて語られることが多い。
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 ▲「七天王塚」の配置図(千葉市立郷土博物館HPより)。
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将門の「影武者伝説」
将門には、7人の影武者がいたという伝承は、比較的知られている。
もっとも、伝説によっては、将門の他に6人の影武者がいて、「7人将門」というパターンの場合もある。
いずれにしても、大事なのは「7」という数字。
これは北斗七星を祀る「妙見信仰」と関係づけて考えられている(梶原正昭、村上春樹等)。
「妙見信仰」については既に触れたが、再度概略を述べておこう。
道教では、北極星を『北辰』とも『玄宮北極』とも言い、この星を祀ると病気が治癒し、天変地異が避けられると信じられていた。
密教にこの信仰が入り、妙見菩薩と呼ばれるようになると、常行堂の守護神である『摩多羅神(まだらがみ)』と結びついて、平安時代初期から、現世利益の側面を強めて民間にも広まったとされる。11〜12世紀には、妙見社、北辰社、北辰権現、七星明神などの社が各地に建てられた。
将門の時代は、妙見信仰流行期の初めだったのである。
特に、武士の間では、北斗七星中の破軍星信仰と結びつき、尊崇を集めた
のである。
ちなみに、北斗七星のそれぞれの星には、柄杓の柄の先から、「揺光」「開陽」「玉衡」「天権」「天王幾」「天王旋」「天枢」との名がつけられている。「揺光」は「破軍星」とも言われ、時刻を知るための星としても重視された。
将門の紋といわれる「九曜」も、これらの星を表したもので(「曜」とは「星」のこと。星は長く◯で示され、☆となったのは明治以降西洋の影響を受けてから)、
(星辰紋は)「弓箭保護の仏天にて妙見菩薩信仰の対象とせられたる星辰」(『日本紋章学』)で「武人にとっては軍の神でもあったのである。」
そこで、影武者伝説は「7」という数字と結びつき、「7人将門」ないしは「7人の影武者」という形をとるようになった。
このほかに、七塚、七つ石、七社、七仏なども、各地に残っているのだが、
将門に関わる事を単に七つの数字に付会したもので、それほど深い意味を持たない場合が多い。(村上春樹『平将門伝説』)
7人の「影武者伝説」の中でも有名なのが、千葉県千葉市中央区亥鼻台の千葉大学医学部構内に残る「七天王塚」(牛頭天王が祀られている)で、
「将門に助力した興世王、藤原玄茂、藤原玄明、多治経明、坂上遂高、平将頼、平将武とする説、弟六人説などがある。」(村上『同上』)
しかし、2002年の発掘調査により、「七天王塚」の中央から古墳時代後期と見られる前方後円墳が見つかり、「七天王塚」は中央の古墳を守護する意味をもつ陪墳ではないかという説が浮上してきた。
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 ▲「紫とも藍ともつかぬ花の色は、女の怨恨といった感じにいかにもぴったりする」(徳江元正氏)
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桔梗伝説(1)
鉄身に一か所だけあった弱点や、7人将門の内どれが本物か、といった秘事を知らなければ将門は討てるわけがない、といった合理的な判断(神仏の加護、といった理由ではない)から、桔梗伝説が生まれた。
多くの伝説では、桔梗(また「桔梗の前」)を将門の愛妾とする。しかし、当時の婚姻制度を考えれば、一夫一婦制ではないのだから、「妾」とするのは当たらないだろう。とりあえず、ここでは「愛人」としておこう。
多くの伝承は、秀郷との血縁のしがらみから将門を裏切ったとする。
つまり、桔梗は、血縁であるという理由から秀郷に秘密を打ち明け、それが原因となって将門は滅ぼされたとするのである。
この桔梗の出自であるが、あるものは藤原秀郷の姉妹とし、あるものは娘とする。
秀郷の姉とする伝承は、千葉県船橋市海神の善光寺に残されている。
この伝承によれば、秀郷の姉桔梗は、将門の愛人となっていたが、
将門滅亡後、当地に来て、この海中に身を投じて死に、鮫となって祟った(村上春樹『平将門伝説』)
という一風変わった後日談を伝えている。
秀郷の妹とするのは、千葉県市原市永吉の桔梗塚にまつわる伝承。
(桔梗は)兄に密告して平将門が滅亡した。桔梗の前は、この地に逃れて自刃して果て、村人が塚を築いて葬ったという。(村上『同上』)
茨城県守谷市の伝承では、桔梗は秀郷の娘となっており、
将門に嫁がせたという。秀郷・貞盛と将門の戦い中、将門が泥田に落ちた時、桔梗が城中から望見していて、合図を行い、貞盛が遠矢にかけて、射落としたと伝える。(村上『同上』)
その他、将門の娘、将門の母とするものもありヴァリエーションに富んでいるとともに、地域的にも福島県から坂東一帯にかけて広い分布を見せている。
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 ▲日秀観音(千葉県我孫子市日秀90)。将門が石井戸の側に、観音堂を建てたと伝えられる。この観音は、成田山新勝寺の不動尊を嫌い、開帳の日には血の雨を降らせるとの伝承もある。
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桔梗伝説(2)
それでは、将門を裏切った女性に、なぜ「桔梗」の名が与えられたのか。
國學院大学文学部の徳江元正氏は、
紫とも藍ともつかぬ花の色は、女の怨恨といった感じにいかにもぴったりする
と述べ、梶原正昭氏はそれを受けて、
それはまた、惨事の中に流された血潮の記念でもあったようである
と『将門伝説』に記している。
しかし、いずれもが感覚的な直感という域を出ず、説得力は今一つといったところであろう。
むしろ、理由としては、村上春樹氏が示唆するように、薬草の一種としての桔梗(「きちこう」。根に含まれるサポニンが界面活性効果をもつことから、せきや喉の薬として使われた。また、昆虫には有毒となるため虫除けにも使用された)栽培での光景に、その因を求める方がまだ良いように思う。
(太い)根を求めるためには、花が咲く前に摘花しておくのがよいという。桔梗の多い野原には、ある時期、花のない桔梗が立ち並ぶ光景が見られたのではなかろうか。(村上春樹『平将門伝説』)
しかも、平安時代には、常陸国、下総国、武蔵国は、薬用としての桔梗の根を中央に貢納していたのである。
花を着けられない桔梗と哀れな桔梗の前が結び付いて、伝説が成立したということになる。(村上『同上』)
したがって、将門信仰をもつ地域には、桔梗忌避とも言える習俗があり、紋所の桔梗でさえ嫌っていた。
神田明神の祭礼には、家紋が桔梗の家の人びとは参詣ができなかったが、駒込千駄木の某家主人が、それを犯して参詣したところ、腰を抜かして立てなくなった、との江戸時代の噂話がある。
また、千葉県我孫子市の日秀(ひびり)観音の開帳の日に、桔梗の紋所を付けた露店が出店したところ、時ならぬ大風に、その屋台だけが吹き飛ばされたとの話も残されている。
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 ▲龍禅寺三仏堂(茨城県取手市米野井)。国指定の重要文化財で、室町時代の建築物。寺に残る由緒書によれば、延長2(924)年の創建、承平7(937)年に将門が修復したとある。また、将門がここで生まれたとの言伝えもある。
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桔梗伝説(3)
将門の愛人桔梗について触れる最後に、梶原正昭・矢代和夫著『将門伝説』を元に、坂東各地に伝わる桔梗伝説をご紹介しておこう。
米の井の桔梗塚(茨城県取手市米野井)
ここは桔梗が秀郷密命をはたしたのちに、その口を永久に封じるため秀郷によって暗殺されたのを、村民たちが憐れんで遺骸を埋葬したところといい伝え
ている。
また、龍禅寺に伝わる話によると、桔梗姫は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子を設け、長刀の名人であった。将門の戦勝をこの三仏堂に祈願しての帰路、秀郷に討たれたことになっている。いずれも、桔梗の恨みにより、桔梗の花が咲かないと伝える。(村上春樹『平将門伝説)
通ふ名の人をうれへて咲き出ぬや 問はん花なき桔梗(きちこう)が原
というのは、ここを訪れて『相馬日記』に記した高田与清の歌。
朝日御殿跡(茨城県北相馬郡藤代町)
桔梗が住んだ御殿(朝日御殿)の跡と伝えられている場所が、大日山(古墳)に隣接してある。大日山は平将門館跡とされる。
桔梗の御殿のあったといわれる地帯は『桔梗田』と呼ばれるが、そこだけは地質がいたってやわらかく、うっかり踏むと足をとられるといって最近までは耕作するものがいなかった由で、ここにも『咲かず桔梗』の伝説がいいつがれている。
また、朝日御殿の言われとして、「桔梗は、毎日、朝日を拝み将門の武運を祈ったことから」と伝えられている。
桔梗の出生地(群馬県太田市只上)
平将門の侍女、桔梗の前は、唯明(只上)村の出身で、将門を裏切り、秀郷に内通した。このため、将門が滅びたが、この地に災いが続いたので、人びとを桔梗を忌み嫌うようになったという。(村上『同上』)
『将門伝説』によれば、
(将門の死後)不思議の災厄あいついで起り種々の祟りをなしたので、将門の霊を慰めるためその胴体を分葬して『胴体の宮』を建立した。
との伝承があるとのこと。
この宮が、今日の只上神社の前身であるそうな。
また、
この伝説地は、地理的に秀郷の伝説圏に属しており、秀郷の妹分という桔梗の素性の生れる経路を暗示しているが、桔梗の裏切りを憤った将門の祟りを述べ、かつ鎮魂慰霊の事績を伝えているところに大きな特色があり、形式的にもかなりプリミティブなものを示している。
というのが、梶原氏の説である。
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