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topics ●「こんな人がいた!」第4回
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戦争を背負った画家/藤田嗣治 |
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▲藤田嗣治(ふじたつぐじ。明治19(1886)〜昭和43(1968))。エコール・ド・パリの人気画家だった頃。

▲太平洋戦争従軍中の藤田。 |
●「戦争画」とは何か
以前、小生は次のような文章を書きました。
「『戦争画』については、さまざまな批判があるようです。
次のような物言いが典型的なもの。
「日本の戦争画から生まれたものは、芸術家の奢りと、『無智な大衆』より劣る精神の貧弱さでした。そのような作品(大東亜戦争画)が芸術として評価されてよいはずがありません。」(司修『戦争と美術』)
つまり、芸術は倫理に従属すべし、というわけです。
けれども、小生は、このような考えには到底納得できません。それどころか、『倫理』という部分を、政治的なスローガン(『彩管報国』)に置き換えれば、たちたまに司修が批判する軍国主義的な美術観になるではありませんか。」
――スターリン治下のソ連では、「社会主義リアリズム」ということばが評価の基準となって、絵画のみならず音楽・文学・演劇等の沈滞を招いたことを忘れてはなるまい。司修の倫理的な裁断は、まさしくスターリン治下の芸術官僚の物言いに他なるまい。「芸術家はすべからくプロレタリアートに従属すべし!」
ここまで、近代日本の戦争画の歴史をたどってきた今でも、その考え方は変わっていません。
むしろ、その考えは強まっていると言ってもいいかもしれない。
というのは、戦争画が持つ絵画としての可能性を述べた、次のような文章に出会ったからかもしれません(以下の引用は、小林俊介論文「プロレタリア美術と戦争画における「国民」的視覚」による)。
「しかしながら、多くの戦争画が『国民』的な視覚に基づいているのに対し、東西の古典絵画に通じた藤田嗣治は、その戦争画においても歴史画的な時間性を獲得しているようにみえる」
「その死闘の描写は眼前の光景の描写というよりも、『玉砕かくあるべし』という軍部と藤田の想像(物語)の産物であり、まさに『絵空事』であった。そもそも戦局の悪化したこの時期、従軍はおろか報道写真の入手さえ困難であった。しかしこの作品が多くの追随者を生み、また大衆的にも支持された『魅力』(不遜な言葉しれないが)の核心部分は、まさにその『絵空事』の部分にあったのではないか」
「洋画の体裁を借りつつ、そこに錦絵ばりの物語性を復活させたことに、藤田の独創性がある。アレゴリカルな描写の復活という点では、藤田の作品は「近代批判」的なものであり、反『国民』的なものである。実際、当時一部の専門家や軍人に藤田の死闘図が厭戦的ではないかとの疑義ももたれたという。しかし、玉砕の物語が国民的に共有されていたため、それらは問題なく大衆に受け入れられ、『殉教図』として『礼拝』の対象にさえなったという」
以上のような視点を元にして、藤田嗣治の戦争画を、生涯と作品に即した形で読んでいきましょう。
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 ▲『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(部分) |
●個人的な背景
戦争画との関連で、藤田嗣治の個人的な背景を考えた場合、もっとも重要なのは、父親・藤田嗣章が陸軍の軍医総監だったということでしょう(また、明治の父子関係にしては珍しく、父親は嗣治の画家志望に反対しなかった。それどころか、嗣治は「自分の最大の恩人は父である」と語っている)。
それによって、彼と戦争画との関連が次のようにして行われていきました。
まず、彼の戦争画の原点とも言える『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』が、最初は父親との個人的なつながりで依頼された。
この絵は、大敗したノモンハン事件(昭和14年、モンゴル軍と満州軍との国境紛争に関東軍が介入、ソ連軍と本格的な戦闘に入ったもので、日本軍はソ連軍の圧倒的な火力・機械力の前に大敗した)に取材したもので、「この戦闘で戦死した将兵の霊を慰めるために」との依頼主(事件当時の第23師団長・小松原道太郎中将)の意図があったのです。
そのため、公式に発表されたどこか明るい絵(左欄写真参照)とは別に、「画面全体をおおうように赤黒い炎が燃えあがっている。その下には、日本兵の死骸が累々と横たわっている。ソ連軍の戦車が、その死骸のうえを冷酷無残に踏みにじりながら通り抜けようとしている」(日動画廊主・長谷川仁)というヴァージョンがあったと言われています。
この裏ヴァージョンの絵柄には、後の『アッツ島玉砕』や『サイパン島同胞臣節を全うす』を思わせるものがあります(この裏ヴァージョンは依頼主一家によって固く秘されていたが、空襲により消失した)。
太平洋戦争が始まると、前述したように、父親・嗣章、兄・嗣雄(陸軍法務官。妻は故・児玉源太郎大将の娘)の人脈で軍部とのつながりが強い彼は、早くから公式従軍画家となって、多くの戦争画の依頼を受けました。
これには、藤田未亡人の証言、
「確か、戦争の始まったころ、麹町の家に軍の方が二人、戦争画を描くように見えたことを記憶して居ります」
があります。
現在、東京国立近代美術館の戦争記録画コレクションは約150点(戦後アメリカ軍に接収され、「永久貸与」の形で返還されたもの)。藤田作品は、その中で最多の14点を数えるのです。
それでは、これらの戦争画は、一般国民の目からはどのように見られていたのでしょうか。
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 ▲『アッツ島玉砕』(部分) |
●『アッツ島玉砕』と賽銭箱
昭和18(1943)年5月30日、大本営はアリューシャン列島アッツ島守備隊の全滅を発表しました。戦死者2,638名、この全滅を「玉砕」と言い換え、山崎部隊長を「軍神」と讃えて、敗北を糊塗したのです(最初の公式な「玉砕」認定。国家による悲劇的《英雄譚の創出》!)。
その3か月後の「国民総力決戦美術展」に藤田嗣治の『アッツ島玉砕』が出品されました。
北の島での戦いを描いたこの絵は、敵も味方も定かではない。ただ凄惨な殺し合いがあるだけの残酷な(ある意味で戦争の実態を描いた)絵画である。この頃から藤田の戦争画は酸鼻なだけで、かえって国民の戦意を喪失させるだけだ、との意見が軍部から出始めていた。
軍部の考えていた戦争画とは、戦争記録画であり戦意高揚画(=プロパガンダ絵画=《英雄譚》)だったからです。
しかし、軍部の意見とは逆に、国民からの藤田戦争画の「人気」はかえって高まっていきます。それはなぜでしょうか?
ここに戦争画の本質を解く、一つの鍵があるような気がします。
それを考える前に、実際の「国民総力決戦美術展」の有様を見てみよう。一般の美術展では考えられないような光景が目に入るはず。
藤田の『アッツ玉砕』の前には賽銭箱が置かれている。そして作者がその横に立ち、賽銭が投じられるたびに頭を深く下げる。
そう、これは美術展ではなく、宗教行事の場なのです。
キリスト教で磔になったキリストや、それを嘆き悲しむマリアを描いた絵画に対するのと同様に、美術展を訪れる人々は、アッツ島で戦死した人々に対して、鎮魂の儀式を行っているのである。そして、その意味を作者である画家も知っている。自分の《絵画に対して》ではなく、《絵画を通して戦死した人々に対し》敬意が払われていることを。
これはまさしく「殉教画」なのです。
『ある意味で絵画とは、本来そのようなものではなかったのか?』
との思いが、横に立つ画家の胸に去来したと想像してはいけないだろうか。
その時、画家は至福の瞬間を覚えたとしても不思議ではない。
『この絵は、確かに俺が描いたのだが、俺が描いたのではない。死者の霊が、俺の腕を借りて、それを描かせたのだ』
とするのは、あまりにも小説的な空想に過ぎるでしょうか。
そして、藤田の「殉教画」は頂点を極めます。
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●殉教図『サイパン島同胞臣節を全うす』
さて、『サイパン島同胞臣節を全うす』です。
これは何を言うより絵を見てもらう方が早い。
 ▲『サイパン島同胞臣節を全うす』(部分)
群像の全てが民間人だというのが、まず今までの戦争画とは大きく違っています。小銃を構えている男ですら、もはや軍人ではない。軍の組織的な抵抗は、昭和19(1944)年7月7日をもって終わっているからです。ちなみにこの日、東条内閣が倒れていますが、彼の残した「戦陣訓」は生きていた。曰く、
「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」
と。
そのことばが、サイパン島の悲劇を生んだ。
この絵には、互いに見つめあい、これから自決しようとする「姉妹」、赤児に最後の乳をやる母親、そして、中景には岬の断崖(マッピ岬。米軍からは「バンザイ・クリフ」と名付けられる)から身を投じる人まで描かれている。
これは「戦争画」ではなく「殉教図」と呼んだ方がいいでしょう。
宗教画と同じように、作者藤田嗣治の祈りが込められている。
両手を高く挙げて叫んでいる女は、何と言っているのでしょうか。
このような絵を、軍部の望んだ戦意高揚のためのプロパガンダ絵画と言うことはできないでしょう(ここで思い出してほしいのは、軍の一部に、藤田の絵は残酷で国民の戦意を喪失する、との意見があったことを。それを押しのけて、公表させるに至ったのは、国民の「人気」があったから、だということを)。そのためもあってか、陸軍はこの絵を購入してはいますが、「聖戦美術展」「決戦美術展」などに出品されたという記録はありません。
もし展示され、人々の目に触れたとすれば、『アッツ玉砕』以上に「鎮魂の儀式」がその絵の前で繰り広げられたことでしょう。
「美術史的に重要なら、フジタ自身としても最高のもの」
との美術評論家・洲之内徹の評価のある作品と、
「いい戦争画を後世に残してみたまへ。何億、何十億という人がこれを観るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一所懸命に、真面目に仕事をしなけりやならないんだ」
との自分自身のことばを残して、藤田の太平洋戦争は終わりました。
詳しい事情は省きますが、「戦争画の大家」だった藤田は、国を追われるようにして渡米、最終的にはフランスに渡り、1968(昭和43)年フランス人として最期を遂げます。
はっきり言って、藤田は戦後には大した作品を残していません。それもこれも、戦争中に燃え尽きたためでしょうか(彼自身、『アッツ島玉砕』を「この画だけは、尤も快心の作」と自負していたようです)。
さて、今日、時間の経過とともに客観的に語られるようになりましたが、戦後長い間、戦争画は美術界のタブーとして封印されてきた気味があります。ただ、誰のどんな絵でも十把一絡げにして、倫理的に戦争画とそれを描いた画家たちを断罪することが行われてきただけです。しかし、それは一番簡単であり、また、一番安易な方法でしょう。
これまで、この稿を読んでこられた方なら、お分かりだと思いますが、藤田を代表とする力量のある画家たちは、軍部のプロパガンダの意図を乗り越えて、あるいは制約にもかかわらず、美術の持つ力を見せてくれました。一言で表現するならば、近代日本で初めて普遍的な「宗教画」を描いたのです。それは、特定の宗教ということではなく、「人の死を悼む」という宗教的感情を率直に示したものでした。ただ、それが戦争中だったことが、美術界にとっても、画家個人にとっても不幸だったのです。
今日「ピース・アート」と呼ばれる一連の作品があります。その内、藤田のたどり着いた域にまで達しているものだけが、初めて「戦争画」を乗り越える可能性を持つことができるのでしょう。
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