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topics ●「こんな人がいた!」第3回 |
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牛鍋「いろは」王国と木村荘平 |
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●真っ赤な人力車に乗った牛鍋王
煉瓦造りの二階建ての洋館と、黒っぽい蔵造りの商家の立ち並ぶ明治の町並みを、人力車が走る、走る。――色が真っ赤と派手なだけではなく、車夫の他に、前で一人が綱を引き、もう一人が後押しをするという〈三人引き〉だから、目立つことこの上なしだ。
俥(くるま)は、紅・紺・緑・黄・白と五色のガラスを市松にはった扉をめぐらした店の前に止まる。看板には右から「いろは牛鳥肉店」と、赤ペンキで大きな文字が書いてある。 俥からは、身長五尺六寸(約170センチメートル)、体重二十四貫(約90キログラム)の大兵肥満の男が下りてくる。――「牛鍋」の栄養豊富さを身をもって宣伝しているようなこの男が、東京市内二十数店舗の牛鍋チェーン「いろは」王国を支配する木村荘平(しょうへい)である。
この王国と、それを作り上げた主人公について語る前に、食べ物としての牛鍋の歴史を、ちょっとのぞいてみよう。
●文明開化最先端の食べ物になった牛鍋
『福翁自伝』に見られるように、牛鍋は、幕末期には福沢諭吉のような貧書生や、彫り物だらけの無頼漢の食べるような、あまり上等ではない食べ物だったようだ。それが、1872(明治5)年、天皇による牛肉試食や、僧侶の肉食妻帯蓄髪許可など、肉食タブーが公的に解除されると一変する。
「牛肉喰わねば開けぬ奴」(『安愚楽鍋』)、「一喫たちまち悟る開化の味」(『日本開化詩』)などの、肉食の積極的な支持によって一般に普及し、流行の最先端を行く食べ物であると見なされるようになったのである。
それでは、明治初期の牛鍋店は、どのようなものだったのだろうか。
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▲仮名垣魯文『安愚楽鍋』に描かれた牛鍋店の光景。
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まず下足を脱ぎ、座敷に上がる。牛鍋(並鍋)の注文を小女に通すと、焜炉(こんろ)が運ばれてくる。炭が入れられ、おきが加わる。そこへ鍋を置く。客は自分で調理にかかる。
「葱(ねぎ)を五分切りにして、まず味噌を投じ、鉄鍋ジャジャ肉片はなはだ薄く、少しく山椒を投ずれば、臭気を消すに足るといえども、炉火を盛んにすれば焼付けの憂いを免れず、(中略)五分切りを白葱全く辛味を失わざる時、何人にても一度箸(はし)をいるれば、ああ美なるかな牛肉の味わいと叫ばざる者ほとんど稀(まれ)なり。」
1877(明治10)年ごろまでには、牛鍋店は急増し、東京市内に488軒(「朝野新聞」11月8日号)を数えるようになった。軒数の増加に伴って店の階層化も進み、白地に朱書き、または赤地に白抜きで牛肉とある旗を店頭高く翻(ひるがえ)した上等店、提灯に牛肉と書いて看板代わりにした中等店、露天の「煮籠屋」(にこみや)という下等店の三種に大別されるようになる。
そして、木村が牛鍋チェーンを広げていった時期(明治20年代)には、もうすでに、東京市内全域に展開可能なほど、牛鍋は一般庶民にまで普及していた。
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●木村荘平という男
木村荘平は、1840(天保11)年、山城国(現京都府)宇治田原の生まれ。家は皇室の御料地を耕作する農家で、製茶や柿渋製造も行っていた。
若いころは乱暴者で、親から勘当されたこともあったほどであった。母のとりなしで勘当を解かれた荘平は、実家で採れた野菜を、宇治の町や京都で売り、「産地直送」の発想に目覚める。
幕末期には、折から起きたお茶の輸出ブームに乗り、実家で製茶したものや、近所から集めたお茶の商売で大儲けする。これも一種の産地直送である。
1868(慶応4)年、荘平の実家近くで、鳥羽伏見の戦いが起きる。このころ、彼は薩摩藩の御用商人になっており、戦いにあたっては、同藩京都蔵屋敷に物資を納入していた。けれども、戦費拡大のための資金不足から、代金の支払いを受けられなかった。戦争によって大損害を受けたが、荘平が得たものは大きかった。それは、薩摩藩の要人たちとの人脈ができたことである。
西南戦争も終わった1878(明治11)年には、その薩摩閥の要人―内務卿大久保利通の懐刀、東京警視庁大警視川路利良から、荘平は東京に呼ばれた。
当時「樹芸・牧畜・農工商の奨励」は内務省の一大業務となっており、その一環として、屠場(とじょう)は民部省から内務省下の東京警視庁の管轄に移管されていた。大警視川路は、この屠場の監理を行わせるために、戊辰内乱の時に知り合った荘平を呼んだのである。
東京に居を移した荘平は、屠場監理とともに、三田四国町にあった動物育種場の払い下げを受け、興農競馬会社を起こす。内務官僚との人脈のある彼ならではの事業である。
1881(明治14)年、荘平は三田四国町で羊肉店を開くが、これはあまり売れなかった。そこで、羊肉の販売から、一大ブームであった牛鍋に商売を転換する。屠場の監理をしていた彼にとって、羊であろうが牛であろうが、自由に肉を手に入れることができたのである。このことが、原材料の質と量とを保証し、支店網を展開する上でのメリットを与えたのである。
三田四国町の店は本店となり、肉の質の良さと安さ――後のデータにはなるが、1907(明治40)年ごろ、牛肉100グラムが9円50銭の時に、牛鍋・並肉一人前が15銭という「価格破壊」――によって人気を集め、東京市中に一大牛鍋チェーンを展開することになった。
●外食チェーン店の草分け―牛鍋「いろは」
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▲木村荘平の息子・荘八が描いた『牛肉店帳場』。両国広小路にあった「第八いろは」の内部を再現している。
| 「暖簾(のれん)分け」という、長年努めた従業員に自店のブランド(「暖簾」とは権利や信用の代名詞である)やノウハウを授け独立させる習慣が、江戸・明治時代にあった――ちなみに、東京の「砂場」という蕎麦屋は麹町が本家で、室町や琴平町は明治になって「暖簾分け」した店である。
もちろん、これは飲食店だけでなく、一般の商家にもあった習慣である。けれども「暖簾分け」は、原材料や商品を本部によって大量一括仕入し販売価格を低くして大量販売をねらう、合理化に基づく近代的チェーン店とは、基本的に異なるものである。
「いろは」チェーンは「暖簾分け」とは異なる、近代的側面も持っているが、経営上は経営者木村荘平個人のカリスマ性が強く、かなりの合理性をもつものの、組織としては前近代性をかかえた外食チェーンであったといえよう。
その意味で、日本初の真の近代的外食チェーン店といえるのは、関東大震災後に成立した須田町食堂であった。
ここでは、現在の外食チェーンとほぼ同じ経営原理をもった須田町食堂と比較しながら、「いろは」チェーンの前近代性を見ていこう。
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▲明治30年代の牛鍋屋。左隣は天ぷら屋。この頃、繁華街には食い物店が軒を並べていたことがわかる。(『風俗画報』より「三番町通りより不二を望む」部分)
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両者の一番大きな違いは、各支店の支店長格のあり方に端的に見られる。
須田町食堂では、経営者である加藤清二郎の地縁である新潟県人にこだわる、といった前近代性は見られるものの、従業員の中から支店長を選んでいる。
これに対して「いろは」チェーンでは、荘平の妾(めかけ)を各支店の支店長格(「いろは」では、この女性を「御新さん」と呼ぶ)に置いている。また「御新さん」の両親が健在であれば、彼らを引き取り、父親には番頭を、母親には女中頭をやらせる、といった家族主義をとっている。
木村荘平の意識では、牛鍋屋という商売を、血縁者または縁族による「家業」として捉えていたのであろう。また、チェーン展開も、家族主義の延長線上にある大家族主義の結果として、そうなったとも言えるであろう。
ただし、組織原理がこのようなものであっても、経営上の合理性は、原材料の本店による一括仕入れや、支店を番号で呼んだことに表れている。
文化的に見れば、「いろは」の時代には、まだ外食が「ハレ」の行事であったの対し、須田町食堂の時代には、外食がすでに「ケ」の日常生活の一部に変わっていたことが指摘できる。
したがって、このような外食の文化的・社会的な位置づけの違いが、この二つの外食チェーンの違いを生んだとも言えよう。アメリカの外食チェーンの影響を直接受けた戦後のそれとは異なる、日本独自の外食チェーンの歴史的な典型が、「いろは」と「須田町食堂」だったのである。
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「子どもたち」の呼び方は『新潮日本人名辞典』によった。 |
●荘平の子どもたち
荘平は支店を任せた多くの女性から、三十人にも上る子どもを得たが、これら多くの子どもの命名法は、一種独特なものである。
男子の場合は、自分の名前の一字「荘」に何番目かを示す文字を付け加えるという形式。たとえば、八番目は荘八、十番目は荘十、十二番目は荘十二、という具合である。ここには、支店を番号で呼んだのと同じ合理性が表れていて、たいへん興味深い。
女子の場合も番号方式は変わらず(ただし「荘」の字は使わない)、六番目はおろく(お六)、九番目はおくめ(お九め)、十番目はおとめ(お十め)十七番目はおとな(お十七)…という具合である。
この子どもたちの中には、女流作家の栄子(長女でペンネームは木村曙(あけぼの))、小説家の荘太(そうた)や荘十(そうじゅう)、画家の荘八(しょうはち)、映画監督の荘十二(そとじ)などの芸術家がいる。
荘平は、1906(明治39)年4月27日、67歳で死去した。
「いろは」チェーンは、養子の荘蔵に受け継がれたが、6〜7年の間に没落する。数多くいる実子が、上記のようにさまざまな才能を示していることを思い合わせると、なぜ養子に跡を継がせたのか?
疑問は残るが、とにもかくにも、木村荘平一代で興隆した王国は、その死とともに没落への道をたどったのである。

その後、「いろは」各店の所在地(明治41年現在)が分かったので、追記しておきます(小沢信男『書生と車夫の東京』より)。
本店 第一いろは 芝区三田四国町一番地(明治11年開店)
第二いろは 日本橋区通一丁目十二番地
第三いろは 京橋区釆女町一番地
第四いろは 欠番
第五いろは 欠番
第六いろは 神田区連雀町十八番地
第七いろは 深川区東森下町四番地(高橋)
第八いろは 日本橋区吉川町一番地(両国広小路)
*荘平の息子・荘八の生家。
第九いろは 浅草区北方今戸町九十三番地(吉原日本堤)
第十いろは 浅草区東仲町二番地(浅草広小路) *荘平の娘・木村曙(本名栄子。1872-1890)が帳場で働いていた。
第十一いろは 欠番
第十二いろは 本郷区本郷四丁目一番地
第十三いろは 麹町区隼町二十九番地
第十四いろは 欠番
第十五いろは 欠番
第十六いろは 麻布区六本木町一番地
第十七いろは 赤坂区青山南町二丁目六十三番地
第十八いろは 牛込区通寺町一番地
第十九いろは 芝区三田四国町一番地(旅館)
第二十いろは 四谷区伝馬町二丁目五番地
この他に、芝浦には旅館「芝浜館」、料亭「芝浦館」があった。
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